「世界を感動させた日本の医師~信念を貫いた愛と勇気の記録」 鈴木 厚

本書は、科学者としても、医療の実践者としても、自らの信念と意思をつらぬいた4名の医師の生き様を記録した書籍です。いずれの医師も自分のおかれた環境の中で、臨床最前線の医師として、また一人の人間として患者と向き合い、信念のもとに精一杯生きられたことがひしひしと伝わってきます。そして、その信念が回りの人を巻き込み、社会をも動かしていく様子があわせて伝わってきます。特に、「長崎の鐘」や「この子を残して」でも有名な永井隆医師の壮絶な生き様には、畏敬の念を感じずにはおれませんでした。

この書籍からは、医療であってもビジネスであっても、その本質は全く同じであって、信念、人に対する愛情や現場主義が最も重要であることをあらためて思い知らされました。また、自分自身の生き方をあらためて見つめ直したり、今の社会や自分のおかれた環境の中で何ができるかを考える機会にもなりました。私自身、医療の一旦を担う仕事に従事していますが、より一層真摯な姿勢で邁進すべきことを再認識させて頂きました。

医薬品企業の皆様も、是非、ご一読されることをお薦めします。

<4名の医師たちのご紹介>
永井 隆 医師
1945年8月9日、長崎医科大学病院の自室で被爆し、動脈からの出血をおして倒れるまで被爆者を救護する。その後、いち早く爆心地へ入り学術報告書をまとめ「長崎70年不毛説」を否定。以降も、自らの白血病との闘いに命を削りながらも、原爆の惨事を広く知らしめるため、病床で書いた「長崎の鐘」、「この子を残して」など多数の著作は、戦後のうちひしがれた国民の心に響きベストセラーとなる。被爆で妻を無くし、二人の幼子を養育する必要があるにもかかわらず、印税の殆どを長崎復興のために寄付。ヘレン・ケラーの来訪を受け、また、昭和天皇も見舞いに訪れる。長崎では「浦上の聖人」と呼ばれた。

荻野 久作 医師
大学での出世よりも一臨床医として、医療現場で診療に携る一方で、科学者としての真理追求も同時に成し遂げる。「排卵は次の月経が来る16日から12日前の5日間に起きる」。現在では常識となるも、当時の学説とは逆の「荻野学説」は、臨床で向き合う患者の言葉からヒントを得たものであった。この荻野学説は世界に認められ、それを応用したオギノ式避妊法が有名になるものの、本人は「避妊」自体を目的として学説を唱えたのではなく「避妊法の一人歩き」に戸惑う。子宮頸癌の手術件数、治癒させた患者数は世界一ともいわれた。多くの大学や大病院からの誘いを断り、90歳まで新潟市民のために患者を大切にする偉大な臨床医であり続けた。

萩野 昇 医師
富山県神通川周辺だけの公害病「イタイイタイ病」の発見者であり、その生涯をイタイイタイ病患者の救済と原因解明に捧げた。神通川に流されたカドミウムが原因だとする萩野医師の説は、権力構造やそれぞれの思惑から学会、行政、地元住民いずれからも非難・中傷を浴び、人格まで否定されることになり四面楚歌に。その結果、一時的に自堕落な生活に陥るが、妻の死を機に従来にもまして研究に邁進。2名の協力者を得るとともに米国国立保健研究機構(NIH)が萩野医師のデータを認めたことが契機となり、萩野学説が証明され世界的評価を受けることとなった。その後、イタイイタイ病は日本初の公害病に認定され、続く裁判でも住民側の勝利につながった。さらに、戦後復興の中での産業最優先から環境への配慮へと、国政の変換へ大きな影響を与えた。

菊田 昇 医師
確信犯的に「赤ちゃんをあっせんします」という広告を新聞に掲載し、社会的問題となる。第2次ベビーブームのさなかで、中絶や捨て子が話題になったが、菊田医師は次々と「殺される」胎児のことを思い、法を守るよりも「人としてどうあるべきか」という観点から、中絶を希望する母親の子を子宝に恵まれない夫婦へ、違法を承知で実子としてあっせんした。この広告は、あえてそれを世に問い、法を変えるための試みであった。世論は菊田医師に好意的であったが、結果的にこの行為は「違法」と判断され有罪とされる。しかし、この広告が元となり、世に議論を巻き起こしたことで「特別養子制度」が導入されるとともに、人口中絶の受胎後の期間短縮も法制度化される。菊田医師の行為は法律を変え、家よりも子どもの福祉を優先させた特別養子制度へと道を拓いた。マザー・テレサと会見、意気投合し、第2回「世界生命賞」を受賞。

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